文学フリマの出店あれこれ

5/6(月)文学フリマに出店した。自分のブースをあらかじめ予約し、そこで小説やエッセイを売るイベントだ。

私は祖父が戦時中つけていた手記を本としてまとめてこのイベントに出店した。

 

きっかけは去年の11月に一般入場者として文学フリマに参加した際に、こだまさんと高石さんから「次回の文フリに出店してみてはどうか」と提案していただいた。

夫はその時点でサウナのZINEも出していたので夫への話かと思いきや

「君もじいさんの本出すんだよ」と夫から言われその気になれば出せるのかと思った。

家に帰ると即ブースを予約しておりブース名に私の名前も入っていた。

これはいよいよ本当にやらねばならないぞと心のハチマキを締める。半ば強引にブースを予約してくれたおかげで踏ん切りがついた。夫に今では感謝している。

 

祖父から手記の存在を聞いた時、A5の冊子をクリップ留めしただけだったので

自費出版でいずれちゃんと保存用に作りたいなという思いは昔からあった。

この時は100部刷って完売するほどたくさんの人の手に渡ることになるなんて想像もしていなかった。

やったよおじいちゃん。

 

誤字があったり、じいさんの戦争手記というタイトルだったのにあとがきではおじいちゃんと呼んでるし、今ならこう直すと思うことは多々あるがとても良い経験ができた。

あとがきは手紙形式ではなく、はじめはふつうに最後まで書ききっていたが、ふと手紙形式にするのはどうだろうと思いついた。

クイックジャパンで連載されている宇垣美里さんが手紙形式で文章を書いていた。

その連載がすごく好きだったので完全にまるパクリだ。

思いついてから文章を打ち直し始めると、しばらくは経験したことない集中力がみなぎり、一気に最後まで書ききった。

素人が寒いことしてるなと思われるだろうと危惧したが、この時ばかりは自分の直感を信じよう、集中できてた時間も気持ちよかったしとそのまま貫いた。

よくアーティストが曲は自分の子供のようなものと例えるが、今ならそれが分かる気がする。

もちろん0から生み出したのはじいさんだし、わたしは全ページの1割分くらいしかあとがきを書いていないので、「もしかしたら誰か興味をもってくれるかもしれないもの」に「乗っかった」だけだ。

4人のエッセイを編集し、自身も長文を執筆した夫よりはるかに軽いプレッシャーの中で制作していた。

それなのにこんなに良い経験ができていいのだろうか。

買ってくださった人はもちろん、手にとって買わなかった人にすらありがたいと思える。

 

 

 

あとがきにも書けなかった不思議なご縁をここに書きたいと思う。

 

じいさんが所属していた針尾海兵団は現在ハウステンボスになっていると先月ネットで知った。

ハウステンボスは去年夫が出張で行った時にこちらを買ってきた場所だ。

 

f:id:namidamenoo:20190512182437j:image

 

そう11月の文フリのときにこだまさんに差し上げた美川憲一仮面だ。

 

f:id:namidamenoo:20190512182511j:image

 

その日の取材でもつけてくださり、記事が公開されたときはめちゃくちゃ感動した。

ちなみに夫が着けている画像はじいさんの家で撮影したものだ。

ハウステンボスに行った夫にじいさんがちょっと憑依してたんじゃないのかな。

仮面を差し上げたこだまさんと、デスクが仮面置き場になっている高石さんから文フリ出店を勧められる。

当日会場でお二人に戦争手記をご購入いただく。

私は勝手に不思議なご縁を感じずにはいられなかった。

そんなん偶然なんて言われたらそれまでだけど、こうしてご縁って思ってる方が楽しいからこのスタンスでこれからもいく。

 

 

あともうひとつ。

今年に入って私はこんなツイートをしていた。

 

 

夢の中で食器を洗っていたのは自宅ではなくじいさん家だった。

 

そして今回の文フリの会場でレンタルさんはまんきつ先生のおかげで本を手にとっていただき

ツイートまでしてくれた。

 

 

私はブースにほとんどいたのでツイッターを全然チェックしていなかったのだが

たまたま一服で抜けさせてもらった時にこのツイートを発見した。

レンタルさんは私たちのブースの5メートルくらい先に常に立っていたのでこれはと思って

ツイートをしてくださったお礼と本を1冊差し上げることができた。

あの夢はそのうちレンタルさんとすこーし絡みあるでというお告げだったのかな。

そう考えた方が楽しいのでそう考えることにする。

 

 

楽しいことを経験するためにはやっぱり何かしらアクションを起こさなければいけませんな。

退職、荷造り、ねことの別れ、引っ越し、荷ほどき、手続き、アラバキなどけっして暇ではない時期に制作した本だったけどやってみて本当に良かったなあ。

自分が作ったものに感想がもらえることがこんなにも嬉しいことだと思わなかった。

これからもいち読者として所感を持ったものは面倒臭がらず言語化して発信していきたいと思っている。

 

料理と私

料理が好きかと聞かれるとうまく答えられない。

食べることは間違い無く好きだが、料理は時に面倒臭さが勝つときがある。

 

私の母は今から思えばそんなに料理がうまかったわけではなかった。

それでも子供になんとか栄養を取らせようと味噌汁の具がやたら多かったり、ビタミンについてのうんちくを聞かされたりした。

ただ作った後母も一緒にテーブルを囲むことはほとんどなく、友人と電話をしたりなんやかんやしていたのでいつも妹と二人で食べていた。

当時は家で出てくるものが絶対であり、家庭料理とはこういうものだと思っていた。

大人になってあんまうまなかったな…。と気づいた次第である。

たまに今日はうまいなと思うものがあればそれを伝えると、それがしばらく毎日出てくるため

飽きてしばらく食べたくなくなるというサイクルだった。

 

数年後母はだんだんと料理をしなくなり、私が高校生のころ夕飯でなにを食べていたかよく覚えていない。母も仕事や自分の事情でいっぱいいっぱいだったのだ。

朝も仕事ぎりぎりまで寝ていたため、お弁当も作っていなかったので母の財布からお金を貰い昼食はよくコンビニで買っていた。

この当時友人に食事の準備が何もないことを伝えるととても驚かれた。育ちの良い子が多かったのである。「よくグレないね」と言われたこともあって笑ってしまった。

このころの家庭の環境はなかなかめちゃくちゃだったが、ご飯を作っていないというたった一つの事実を伝えただけでグレるグレないのワードがとびだしたことに笑ってしまった。

自分で作ればなんら問題なかったが、高校生のころの私は部活の朝練で朝早く登校し、帰りも21時を過ぎることが多く、とてもじゃないが自分で作ろうという気にはなれなかった。

食事以外にもたまる洗濯物、汚れた食器、ゴミ捨てなど家がぐちゃぐちゃな事に慣れすぎてひとつも動かなかった。

唯一動いたのは父だ。食器を洗っていた後ろ姿をうっすら覚えている。

単身赴任先から帰ってきて家でくつろぎたかったろうに、今から思えばかわいそうだったとも思う。ごめんな、トーチャン。

制服のブラウスや体操着など洗われていないと母に文句を言った記憶はあるが、それ以外に関しては文句を言った記憶がなかった。文句を言わなければ手伝いも全くしなかった。

私も汚家の住人になってしまっていた。

 

卒業後の進路を決める時期になっても私は将来なりたいものがよくわからなかった。

ただ通っていた高校は大学もくっついていたのでその学部の中から資格も取れて食いっぱぐれなさそうだからと栄養士免許が取れる学科に進んだ。

心のどっかでは栄養士の資格さえ取れば食事を作らないような人にはならないのではないかと思っていた。そんなわけないのに。

なんの手伝いもしなかったくせに母を反面教師にしてたのだ。

家事はできなくても父不在の家を不器用ながら守ってくれていたが、子供だった私には「大人のくせにちゃんとできない」ことに注目してしまっていた。ごめんなカーチャン。

 

 

言い聞かせるようにして入学した大学はみな食べることが好きな良い子たちばかりだった。

人数の少ない学科だったので行動はほとんどクラス単位という高校の延長のような授業形態だった。

飲み会をすることになれば出席率はかなりよかった。

乾杯のあとしばらく無言で全員が食べることに集中していた。お腹が満たされると話に花が咲くようなそんな子たちの集まりでかなり居心地が良かった。

 

だが実技試験で私は地獄を見ることになる。

りんごの皮を繋げて最後まで剥く試験があったのである。

包丁を握ったことのある人にはたやすいことだ。

当然私は包丁もほとんど握ってきていない。クラスメイトはさすがみんな慣れた手つきで皮を剥いていく。まん丸のつるんとしたりんごだ。

私はなんとか最後まで剥いたものの皮が何枚にもわかれ表面はボコボコでサッカーボールのようだった。恥ずかしかった。私だけができない。

 

これではまずいと思いバイトはもともとまかない目当てで飲食店だったので、ホールからキッチンになった。

これえ嫌でも仕込みで包丁を握ることになる。

しばらくすると、もともと大雑把なので切った食材の大きさに多少差はあるものの、サッカーボールりんごの時よりだいぶマシになった。

なにより作業として包丁は脳死できるので長時間していてもあまり苦ではなかった。

少し自信がついたあとは調理実習や実験もあまり苦ではなくなった。

みんなが気持ち悪いと触らなかった5キロの鰹を、率先して自ら節おろしというものをした。(この日以来鰹はおろしていないが)

結局バイトをとにかくしていた大学時代だったので家でご飯は作らないままだった。

 

結婚して家を出た。結婚しても仕事は続けていたが、帰りは夫より早いことがほとんどだったので、いよいよ自分で食事を作る日々が始まる。

バイトとはいえとりあえず包丁の使い方がわかったり、調理過程を効率よくする術も身についているので、全く作れないということはなく、今も一応食事の支度をしている。

しかも引っ越したばかりで現在また無職。仕事をしている時より圧倒的に体力も時間も有り余っている。

最近では「きのう何食べた?」を読み返してそこから献立を決めている。

義母との同居を経験した私にはこの家の台所に自由を感じる。

一人で使える台所がこんなにも心地よかったのかと実感すると、やっぱ同居向いてなかったなと思う。

心の余裕からか今のところ料理に面倒臭さを感じていない。今料理が好きかと聞かれたら「結構好き」と答えると思う。

 

 

明日は何を作ろうか。明日は松屋でカレーを食べるんだった。

外食もやっぱめっちゃ好き!!!!!!!!!!!!!!!!!!

皿洗ってくれるの最高!!!!

 

 

二年間義母と同居したこと

二年前の三月、夫の転勤が決まった。当時は仙台に住んでおり、夫の実家近くの店舗に転勤の辞令が出た。夫の母と同居という選択肢しかなかった。

 

そのことを当時の職場の人達に伝えると「うわぁ〜」や「が、がんばってね…」などご愁傷様的ムードのリアクションばかりだった。

みんな同居はしたこたがないようでマイナスのイメージしかないようだ。私だってそうだった。 

 

義母のパワフルな感じに疲れてしまう自分が容易に想像できた。

悪い人ではない。むしろ今までだってよくしてもらってきた。でも他人と暮らすことはなかなか苦痛だ。

私は外ではしっかり働く。言われる前に動く。素早く動くことを心がけている。だが家では死ぬほどダラダラしたい。ボロ雑巾みたいな衣類を身につけて過ごしたい。

それが他人と住むとなるとできなくなる。義母が作ったご飯を頂く度に「わあ!おいしい」とリアクションをしなきゃいけないのかと思うと涙が出るほど嫌だった。

 

でも実際一緒に住むと驚くほど過ごしやすかった。

まず二階を自由に使わせてくれることになり、食事も夕飯だけ一緒にとるということで夕飯以外は二階にこもり死ぬほどダラダラ過ごしていた。

それでも義母から二年間で嫌味など1度も言われなかった。家事も1階の掃除や食事などたくさん率先してしてくれた。

外食に行けば支払いをしてくれることがほとんどだった。口数が少ない私たち夫婦の食卓を明るくしようとたくさん話題をふってくれた。

他人と住むゆえに発生する小さいストレスもないわけではなかった。

でも今は感謝の気持ちの方が大きい。

 

そして二年間もうひとり生活を共にしたものがいた。

 

 

f:id:namidamenoo:20190407231554j:image

 

ねこのくるみである。

動物と一緒に住むことが昔から夢だった。実家はマンションで飼うことができず、結婚を機に家を出たが夫の会社の謎社訓にペット厳禁とあり未だに夢は叶わないままだった。

ただ今回の同居先にはもともとくるちゃんがいたので動物と一緒に生活することが念願叶ったのである。

昔は人も他の猫のことも嫌いでしょっちゅうシャーシャー威嚇していたが、年をとって丸くなり膝の上に自ら乗ってくることもしょっちゅうだった。こたつを出せばこたつ布団の上からよく座りにきた。

f:id:namidamenoo:20190407232058j:image

言葉が通じなくてもそばにいてくれるだけで絶大な癒しを与えてくれた。

ちゃおちゅーるにがっつく姿も、うんちの前とうんち後いちいち大声で鳴いてお知らせしてくれることも、二階でこっそりおやつを食べようとしたらどこにいても駆けつけてくる姿も、人間のご飯のおこぼれをもらえると思って食卓をうろうろする姿も、食後機嫌が良くなってお腹を見せながらゴロゴロする姿も、こたつの中で全然丸くなくて伸びきって眠る姿も、あくびの口があききる前の顔も

f:id:namidamenoo:20190408010234j:image
f:id:namidamenoo:20190408010230j:image

早朝まだ寝ているのにわざと身体に勢いよく飛び乗って起こしにくるさまも、横になったら布団に入ってきて腕枕させてくれるところも全部全部愛おしい。

夫と二人で同じものを愛でるかけがえのなさを初めて知った。

夫もわたしがくるちゃんを可愛がることをとても喜んでくれた。

 

今回の引っ越しの荷造りの時もいつもと違う部屋の様子にずっとそわそわしていた。

引っ越しを前日に控えても全然荷造りが終わらず、朝方ものがたくさんのったソファで途方にくれていると、それまでせわしなく暴れていたくるちゃんはゆっくり近づきスッと横に座ってくれた。

f:id:namidamenoo:20190408012247j:image

こんなぐちゃっと丸まったバスタオルの上に座ったのだ。

作業はまだ続くのでなくなくソファをあとにすると

f:id:namidamenoo:20190408012332j:image

たたんであったこたつ布団にすぐ移動した。

居心地悪いのにわざわざ隣に来てくれたと思うと泣けた。

 

最後のお別れの時はいい年して「ふぇ〜ん」と言いながらくるちゃんのお腹に顔を埋めて泣いた。

くるちゃんはそのあと階段を登って行ってしまったので少し追いかけた。少し遠くで目が合うとお互いしばらく動かず見つめあっていた。おいでと手を伸ばすとこっちにちかづき頭を撫でさせてくれた。

 

くるちゃん。仲良くしてくれてありがとう。

 

この二年間地元の友達や家族と離れていても寂しさを忘れるくらい満たされていたと思う。

仮に動物と暮らせる環境になり、代償として長期旅行に行ったり長期で実家に帰ったりできなくなったとしても、きっとわたしは動物と暮らすことを選ぶと思う。

 

 

義母よりねこに対しての圧倒的に文字数よ。でも義母がちゃんとお世話をしていてくれたからこそこの二年間わたしも一緒に暮らせたのだ。

 

どちらにも、そしてねこが好きな夫にも感謝している。

 

 

あと明日からの役所や雇用保険関連の手続きだりーーーーー!!!!!

 

未だに動物占いをしてしまうこと

f:id:namidamenoo:20190308162621j:image

自分に自信がなくなったり落ち込んだりしたとき、動物占いをしてしまう。

自尊心回復のために誰かに私のいいところ10個教えろというには気恥ずかしい。動物占いならスマホでシュシュシュと検索するだけで良いところを10個も20個も教えてくれる。

欠点も書いてあるので次からこうして失敗を回避しようと前向きになれる。

 

子供の頃から占い、心理テスト、おまじないなど大好きだった。小学生なら一度は図書館で心理テストやおまじないの本を図書館で借りたことがあるのではないだろうか。

借りた本の中に願い事が叶うおまじないが載っていた。

白い皿の上に乗せた金平糖を月明かりの差し込む部屋の窓辺に一晩おき、それを食べながら願い事をすると叶うというものだった。我が家に月明かりが差し込む窓辺などない。引っ越しを強いられるくそみたいなおまじないに嫌気が差し、それ以降その本は読まなかった。

それでもおまじない自体は好きなままだった。

 

 

おまじないネコチャクラくんを知ってる人はどれだけいるだろうか。

 

f:id:namidamenoo:20190308162648j:image

 

このクロネコが主人公にたくさんのおまじないを教えてくれるのだ。ギャグのテンポの良さも秀逸で小学生はかなり好きな内容だったと思う。周りで読んでいる人は一人もいなかったけど。

 

 

話を動物占いにもどすと動物占いは90年代終わりから00年代に流行した、星座占いのように生年月日で自分が12種類のどの動物か占うものだ。なかでもさらに細分化されたものがあり、「自由なペガサス」や「おしゃれなチーター」など○○な動物とカテゴリーわけされたものが当時から大好きだった。1カテゴリ動物ごと100均にも冊子が売られていた。そのくらいお茶の間に浸透していたと思う。

 

わたしは「まっしぐらに突き進むゾウ」だった。ゾウかよ。小学生ながら特別可愛げもない、なんだか堅物そうな印象を受けがっかりした。「人の話を聞かない」や「キレると一番怖い」や「個人プレーが大きい」などあまりよい印象をうけないことばかり目に入った。キレると怖いという自覚は特別なかったが、これを知って以来自分は「キレると怖い」人間だということを自覚し絶対に人前でキレないようにしようと心に誓った。代わりにブチ切れて人に怒鳴り散らす夢をたまにみるようになった。

あとは家族を占ってここはあたってるここはあたってないなどその日話題になっただだけでブームはそこまで長く続かなかった。

 

中学に上がる頃にはそこまで占いやおまじないブームは去り、見てもめざましテレビティーン誌の星座占いに目を通すくらいだった。

 

 

そしてここ最近動物占いの存在を思い出し検索してみると、今はさらに細分化され60種類あるという。

どうせ「まっしぐらに突き進むゾウ」だとは思ったが再度占ってみることにした。

 

 

 

「デリケートなゾウ」だった。

 

 

 

まっしぐらよりもよっぽど面倒臭そうだ。面倒臭い自分や面倒臭い他人はなによりもごめんこうむりたいものだ。嫌だ。すごく嫌だった。

しかし読み進めて行くと長所ももちろん書いている。わたしの堅い性格を肯定してくれていた。

特に頷いたのは「デリケートなゾウは内向的な性格である。内向的とは性格が暗いとは別で自分の世界があるということだ。みんなで協力して遊ぶことより本や映画など一人で楽しめる世界を知っている。一人の時間の価値を知っているのでむやみに他人に話しかけないが一旦打ち解けると喋りまくる。」の部分だった。

 

転勤族の妻なので職場が変わることもしばしばある。社会人になってから10年近く経っているのに、変わるたびになかなか馴染めず自分から雑談をできないことにいつも悩んでいた。

でもこれを読んでからそれでもいいや、と少し思えた。むやみに他人に話しかけない理由がすとんと腑に落ちて安心したからだ。

 

4月からまた引越しして新生活が始まる。きっと忙しくなる。ただでさえ4月はいつもソワソワして落ち着かないのに環境の変化に不安をかなり感じる。

でもそうした時、わたしにはいつも自分を鼓舞してくれる「デリケートなゾウ」がそばにいる。友達が近くにいなくても、インターネットの工事屋が繁忙期な時期でなかなかネットに繋がらなくても一人の時間の価値を知っている。時間がかかってもこの場所に引っ越して来たのは意味があったなって次も思える自信がある。

 

だけどやっぱ役所系の手続きめんどくせ〜〜!!!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

スナック鳥男を教えてくれた男

幸せなことに親友と呼べる人がいる。学生の時のバイト先で知り合った人だ。
漫画と音楽の趣味が近く、私の知らなかったものをたくさん教えてくれた。気配りのできる優しい人だった。仲良くなるきっかけはそれで十分だったのに、好きな人と苦手な人のタイプも同じで話が尽きることはなかった。

在学中にそのバイト先が潰れることが決まった。最終出勤日に店の外の非常階段でお別れの話をした。「使い方は間違ってるけど目に入れても痛くない存在だった。寂しいね。」と私は伝えた気がする。彼も「使い方間違ってるけど目を超えてむしろ俺の瞼だから」と言ってくれた時はとても嬉しかった。意味わかんない。
すごくすごく仲がよかったけど彼に恋愛感情はなかった。お互い恋人がいたし、なによりこのままの関係が一番居心地がいいとお互いわかっていた。クイックジャパンの宇垣アナの連載で親しかった先輩への手紙で「抵抗がありながらも、それでもつながっていたいと願う友情は恋愛関係なんかよりもずっとずっと価値があるもののような気がします」がすごく響いたのは彼がいたからだと思っている。尊い。「抵抗」の意味合いは宇垣アナと違うと思うが、すごく共感した。

バイト先がなくなっても数ヶ月に一度は会って近状を伝えていた。家がゴタゴタしていた時も話をしっかり聞いてくれた上でいつも笑い飛ばしてくれた。救われた。私も人に対してこうありたいと思った。
本人は覚えていないと思うが「30になってお互い恋人いなかったら結婚するか〜ワハハ。」なんて冗談を言われたこともあった。これ漫画とかで見たことあるやつだ。自分なんかにありがたいこと言ってくれるな。あーなんか暮らせそうと思ったりもしたけど、そうらならないだろうという直感があった。

私の結婚が決まった時も喜んでくれた。同時に他県に嫁ぐことも残念がってくれた。
離れた場所にいてもラインでの連絡はほとんど取らなかった。会った時に言葉で目一杯伝えるためだった。
実家に帰る数日前に会えるか聞けばいつでも空けてくれた。いつもと同じようにくだらない話から人にはなかなか言えないような毒もネガティブなこともたくさん話した。その日のその日の別れの名残惜しさより、心ゆくまで喋らせてくれて帰りの足はいつも軽かった。会う前はいつも本当に楽しみだった。

年末に久々に彼に会った。彼は近々実家に帰ることになったという。私の実家からは離れた他県だった。その時に彼の実家の事情がかなり複雑だったことを聞いた。わたしよりずっとずっと大変な事情を抱えていた。なかなか神奈川に遊びに来ることは出来ないそうだ。会うのが難しくなる。彼が遠くに行ってしまうよりも実家の事情のほうにショックが隠せなかった。
だが同時に嬉しいお知らせも聞いた。約10年ぶりに彼女ができたという。
不安定な生活を送っていた人だから心底安心した。もう付き合うまでの過程がめんどくさくて彼女いらんとまで言っていたのに、地に足つかずフワッフワしていた。しかも彼女は死ぬほど可愛かった。
心配させないように、後から浮いた話を持ってきてくれて彼の配慮を感じた。

その日話の流れでわたしのことを「親友」と表現してくれたことがあった。友達とはまた違うシンパシーを感じていたのはわたしだけじゃなかった。彼もそう思ってくれたのは知っていたけど、直接伝えてくれたのは瞼発言以来だ。嬉しかった。

このブログのURLを彼に伝えたかもう覚えていない。彼はツイッターもしていないからきっとここを見ることはないだろう。

この感謝の気持ちをどうやって伝えよう。自分の本当の気持ちを人に伝える時いつも涙が出ちゃうから躊躇しちゃうな。本当のありがとうはありがとうじゃ足りないんだはこのことだと思っている。
どうかどうか今後も幸せであってほしい。

凍てつきし我が青春の日々㉔

昭和20年3月31日

今までの元の九兵舎に居住していたが、次期経理術講習が4月2日より始まるので本日追い出されることになった。

昭和20年4月3日

午前福石の軍需部倉庫へ寝台運搬の作業に行く。午後帰ると、東京警備隊へ転属命令が来ていた。全く感無量だ。

昭和20年4月4日

午食後、思いで多き佐世保海兵団を退団、午後六時過ぎの列車にて東京に向け出発す。博多に夜十一時頃着き、ここで東京行きの午前四時四十五分の列車に乗り換えることになったため、四時間余り時間があったので、元住んでいた住吉の家(川添一家が今住んでいる)へ行った。和子未だ古賀ではなく、住吉にいると聞いていたので、和子にも逢えると思ったが、生憎古賀の家に行っており、逢えず残念であった。川添のお祖母さんがわざわざ早い朝食の支度をして、二食分の白米の弁当まで作って頂いた。

昭和20年4月6日

二度と東京の土を踏むことは無いと思っていた東京に午後三時頃着く。直ちに日比谷にある海軍東京警備隊へ行き、ここから永田町国民学校にある派遣隊

配属された。我々は海軍省勤務となる予定である。

昭和20年4月18日

目黒区大岡山の東京工業大学内にある海軍省第三分室経理局家族渡へ配置が決まり、大岡山へ移った。

昭和20年4月28日

今日は東京に帰って来てから初めての外出である。自由が丘の元の下宿を訪ねたところ、4月15日の空襲により焼失していた。中根町の方に行ったところ、岡田の小母さんの元気な姿を見ることが出来て安心した。

昭和20年5月1日

海軍上等主計兵に進級する。

昭和20年5月23日

東京へ出て今夜で三度目の大きな空襲だった。遂に宿舎にも焼夷弾が落下し、焼失した。私物もすべて焼けてしまい、残ったものは着ているものだけとなった。この日記を書いている手帳はいつも肌身離さず身につけていたので焼けずに済んだ。

昭和20年8月26日

8月15日戦争終結、同日付にて海軍主計兵長に進級し、退職金600円を受領して除隊する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上で祖父の日記はおしまいです。

このあと28人の方からの寄せ書きと針尾海兵団々歌の歌詞が綴られていました。

 

最後まで読んでくださった皆様ありがとうございました。

 

現在来年の文学フリマでこの日記を一冊の本にまとめたものを出そうと考え中です。

 

 

凍てつきし我が青春の日々㉓

昭和20年2月1日(木)曇後雨

正月も何時の間にか過ぎて二月となった。講習も殆ど終了し、明日の試験が終われば小浜ほうめんへ演習に行き、後は卒業するばかりである。

今朝は曇っていたが、暖かく感じた。しかしすぐその後冷えて来る。未だ冬去らず

観だ。寒くなってから久し振りに雨が降った。明日は庶務と需品の試験があるので、皆遅く迄勉強していたが、何もかも嫌になって、早く寝てしまった。

昭和20年2月2日(金)曇

昨日の雨で道がぬかるんでおり、朝別科の整列は舎内で行われた。

八時より庶務の試験が十二時過ぎまで行われたが、勉強不足のため出来はよくなかった。

午後は需品の試験があり、今日で卒業考査も全部終わってしまった。明日は野外演習だ。

昭和20年2月3日(土)

相浦方面へ野外演習に行く。昼は目的地に於いて野外烹炊の薩摩汁をすすって、元気をつける。

昭和20年2月4日(日)

明日より小浜方面へ演習に行くので、その準備をする。

昭和20年2月5日(月)

午前四時三十分起床、冷たくなった飯をかきこんで食べ、出発用意、六時過ぎの軍用列車にて諫早向かう。諫早より愛野まで冷たい風の中をトラックにて行軍。

愛野より演習開始、三時半頃小浜温泉に到着。宿舎吉田屋に入り、久し振りにて温泉に入り、ゆったりした気分になる。

夕食は茶碗で食べる。海軍の大きなアルミ食器と違い、少しづつよそって食べる茶碗の飯の味は亦格別だ。昔を思い出し懐かしい。五杯も食べたが、未だ食べ足りない様な気がする。夕食後十時まで自由外出が許され、仲間六名と一緒に近くの農家へ行き、薩摩芋を御馳走になる。針尾以来の芋であるので旨かった。未だ足りないと言うので、別の農家へ行き、無理に頼んで芋を蒸して貰ったが、腹が一杯であまり食べられなかった。九時半頃帰り、温泉に入ってから床につく。入団以来初めての「布団」であったので、非常に懐かしく、嬉しく思った。

昭和20年2月6日(火)

七時起床、疲れておったためか、昨夜はよく眠れた。二度と再び「布団」に寝ることは無いと思うと「布団」から出るのが辛かった。

朝食後八時三十分出発、小浜の郊外に於いて演習し、その後は通常行軍にて愛野へ向かい、ここよりトラックに乗って諫早へ行き、ここで一時間以上も時間があり、一時解散となり、四時過ぎの列車にて佐世保に向かい、六時半頃帰団した。

昭和20年2月10日(土)

三ヶ月の講習もやっと終わり、掌経理兵となり、主計科に転科した。兵籍番号も佐二補主第1128号に変更になった。貰えないと思い、諦めていた特技賞もどうにか左腕に付けることが出来た。一番寒い時期に講習を受けたので、殆ど不勉強に終わってしまったことは残念であった。が、どうやら卒業は出来た。今後は一生懸命頑張って、立派な掌経理兵として努力しようと思う。

午後九兵舎の階上にて壮行会が催され、心づくしの赤飯で祝った。

昭和20年2月14日(水)

佐世保警備隊給与係として我々講習員十名が派遣されることになった。