凍てつきし我が青春の日々⑨

昭和19年12月11日(月)曇

昨日の入湯外出の者が今朝帰って来るので、少し早めに起きて団門に行き、再び首実検をする。帰団者が多くて、加うるに印象が段々薄れて行くので、発見することができなかった。朝食後先任衛兵伍長と共に、各分隊を廻って調べたが、全然不明である。もし犯人を発見出来なかったら、どの様に分隊士、教員その他に迷惑を掛けたことを詫びようか。

一時先任衛兵伍長室で休んでいたところ、犯人が分かったと言う知らせがあった。それは昨晩疑わしき者として、二人を指定しておいたが、その内の一人であったのだ。余り人を疑うのはどうかと思って、彼が犯人であるとは断定出来なかったのだ。しかし種々取り調べの結果、彼が自白に及んだそうである。

犯人を発見できて本当に良かった。午食の時、衛兵司令が来て、もう一度彼を見てくれとの事だったので、行って見たが、確かにそうであった。

昭和19年12月12日(火)曇やや暖

いよいよ本年も去らんとする時、懐中に一銭もなく、心細い限りである。何とかして家に連絡して送って貰いたいものだ。

最近は何処からも便りが来ない。淋しい限りである。もっとも自分も近頃は全然手紙を書かないので、便りが来ないのも無理は無い。

故郷の家が田舎に移転すると言っていたが、もう引っ越しただろうか。

先日の空襲で東京は如何になったであろうか。特に自由ヶ丘(下宿していた所)のあたりが気に掛かる。皆無事であることを祈るのみ。下宿の小母さんには満二年間親身も及ばぬ御世話になり、その御恩は何時までも忘れはしない。

昭和19年12月13日(水)曇小雨

益々寒さも加わって来る。近頃はよく家に帰った夢を見る。昨晩もそうであった。

今日は大した感想も記事もない。

夕食後バスに入ったが、身体は洗わず、じっと湯に浸かって温まるだけにしたので、身体がポカポカして気持ち良い。

先日市中で時計と財布を盗んだ犯人は見つかったが、現品が見つかると良いのだが。特に時計が惜しくてならない。

凍てつきし我が青春の日々⑧

昭和19年12月9日(土)曇時々雪

午前四時半総員起こし、五時より第二警戒配備となる。午前の陸戦は庶務と金銭に変更。正午第三配備となる。

今朝は早く起きた故か、座学の時間は眠くてどうにもならなかった。今日は食事当番であったが、大の配食鍋が無くなっておったので、苦労した。

明日の日曜日は行軍だそうだが、何処まで行くのか不明なり。本日は大した記事も感想もなし。

昭和19年12月10日(日)曇

引率外出、九時出発、海軍墓地参拝の後解散。

本日は自分の一世一代大失敗をした日だ。余りにも自分がうっかりしておった事に情けなく思う。今更泣言を言っても無駄だと思うが、二度と繰返さないため、誌しておく。

海軍墓地参拝後解散、自由行動となつたため、其の場でご昼食を取り、川原一水と市中の方へ行ったが、川原一水は親戚の家へ行くと言ったので佐世保駅の手前で別れた。これが今日の失敗の原因となったのだ。

午後一時四十分頃映画でも見ようと思って、映画館の前を歩いていたところ。艦の者と称する上等兵は自分を呼び止めて、お前は何分隊かと聞いたので、29分隊だと答えたところ、今日集会所の前でお前達と同じ服装をした者から下士官が財布と時計を取られたから、お前の財布を見せてくれと言うので、自分は集会所には行かないし、盗んだ覚えは無く、潔白だったので、これは確かに自分の物だ。良く見てくれと言ったところ、下士官が待っておるから、それに見せて確かにお前の物なら返すと言って、千日食堂の中に連れて行かれ、ここで時計と財布(50円在中)を渡せと言われたので、相手が上等兵であったので、仕方なしに渡した。そうしてお前はそこで待っておれと言って、走り出したので、不安に思って後を追ったが、曲がり角で見失ってしまった。しまったと思ったが、もう遅かった。全て後のまつりだ。奴は最初から計画的にやったのだ。時計も財布も大事な品だった。財布は母の形見だ。時計は入学記念の品だ。もう返って来ない。諦めるより仕方がない。大事な物を畜生、奪い取った奴は罰が当たるぞ。全く悲観する。

泣き寝入りとは何たることだ。もう一銭も無くなってしまった。どうしたら良いかなあ。クラス長に届けたところ、クラス長より教員、教員より分隊士、分隊士より先任護衛伍長、副直将校、当直将校へ届けられた。

団門に於いて三種軍装を着た上等兵を一人一人首実験したが、外出員が多くて、どの顔も同じ様に見えて、遂に発見する事が出来なかった。ああ今日は不愉快な日だった。軍人が何ら恥じるところなく人の物を取るとはもっての外だ。男らしく諦め様う。以後注意すべきことよ。よい教訓になつた。又自分の不注意のため皆に迷惑を掛けて全く申し訳ない。何と言って皆に詫びてよいのだろうか。

夜の温習止めの後、分隊付の助手より呼び出され、「外出中の不注意による事件を団内に持ち込んで、皆に迷惑を掛ける様ではお前は軍人精神が無い。特に教員を自分の私用に使うとは何事だ」と言ってギヤ庫で目茶苦茶に殴られた。海軍に入って以来こんなに殴られたのは初めての事であった。むしゃくしゃしていた気分が一遍で吹き飛んだような気がした。しかしさすが悔しかった。財布と時計を取られた上に、殴られて何とも言えぬ気持ちがした。自分は何と言う馬鹿であろう。余りにも人が良すぎる。今後はかかる事の無い様に気を付けよう。

凍てつきし我が青春の日々⑦

昭和19年12月7日(木)曇時々晴 寒し

起きると未だ薄暗い。冷たい風が吹いて、手も耳も感覚がなくなつて来そうだ。上半身裸体で駆け足をするが、朝の冷え切った空気をついて走るので、身体が痛い様だ。今朝は五周したので、さすがに疲れた。

月例健康検査が行われた。チフスの予防注射を胸にしたので、痛くて手が上がらない。

この頃は日時の経つのが特に早い様に思える。

種々噂に聞くところによると、東京空襲の被害が相当大の様である。自由ヶ丘の辺りは如何であろうか。無事なることを祈る。

明日は大東亜戦争勃発三周年記念日だ。早いものでもう三年になる。

明日は5時半総員起床の予定。洗石一個塵紙若干配給になる。

夜9時15分迄の温習中は寒くて何も頭に入らない。送って貰ったシャツを着たが未だ寒い。

昭和19年12月8日(金)曇時々小雪

三度迎える大東亜戦争大詔奉戴日である。今朝は5時30分総員起こし。6時より第二警戒配備となる。

昭和16年12月8日は丁度母が亡つたので、博多に帰っておつたが、哀しみの内に、大詔換発の報を聞き、ハワイの大戦果に感激したものだ。

午前8時より詔書奉読式挙行さる。

寒い筈だ。もうちらちらと雪が降って来る。やっと冬になったばかりの時、今頃こんなに寒いと先が未だ長いので憂鬱だ。

今日は特別防空訓練があったので、夕食は握り飯一個とリンゴ半個だけ配給され、腹が空いて困った。

明朝は5時より第二警戒配備となる予定であるので、巡検終了後、温習が無く、すぐ寝た。寒くて足の先が冷えて中々寝付かれない。もすこし毛布が長いと良いのだが、少し短くて足が出る。夜中に水が飲みたくて困った。夕食の味付お握りを食べてお茶を飲まなかった故であろう。

凍てつきし我が青春の日々⑥

昭和19年12月5日(火)曇時々晴 寒し(昨日よりもやや暖かい)

今朝は舎外掃除当番であつたので、駆け足はしなくて済んだ。益々寒くなつて来る。軍隊は家庭と違って、寒くても暖かくする方法はない。初めての冬を軍隊で送る。こんな時には家庭が恋しくなるのも無理からぬ話である。

今日は噂に聞いたことであるが、昭和18年1月の第一回の補充兵がこの12月に招集解除となるとか。信ずべきかどうかは全く不明であるが、火の無い所には煙は立たずの諺が有るように、全然根拠の無いものとは思いたくない。応召以来2年経過した補充兵が解除になったら、我々も張り合いがあって良いと思う。

今日は何故こんな夢物語の様な果敢まい話に気を取られて、心が動揺するのであろうか。応召当時のあの感激を忘れ去ったのか。何と言って故郷を出てきたか。未だ娑婆気がなくならないのが、残念に思える。未だ未だ真の軍人に成り切れないのだ。ああ自分も普通の凡人と何ら変わるところがない。しかし如何なる人も自分と同じ考えを持って居ることには変わるりないと思う。未だ海軍に入つてから僅か半年を少し過ぎた位だ。考えると六ヶ月は短いようで非常に長く感じた。社会と異なった軍隊生活に応召前は憧れた事もあつた。然し一旦軍隊に入ってからは、こんなにも軍隊は気を使い、特に自分如き一等兵は下級の者もいた時は種々不平不満もあったが、軍隊に比べると、それは唯「贅沢」とゆう一語に尽きる。今まで何の気苦労も無しに平凡に送って来た半生がこんな気持ちにさせるのだろうか。私は考える。もっと人間とゆうものを錬磨しなければならない。本当の軍人に成り切らなければならない。軍人精神の高揚に努めよう。

只今は経理術の講習員として、毎日座学に時を過ごしておるが、自分にはこんな掌経理兵の仕事は何だか不向きの様に考えられて仕方がない。然しこれも自分に与えられた任務である。最後まで頑張らなければならないと思う。

昭和19年12月6日(水)雨

夜中割合に暖かいと思って居たらやはり雨が降っている。今朝は総員で掃除をする。雨の日の食事当番は辛い。飯の量が毎日非常に少ないのにはさすがの自分も閉口する。東京に居た頃は下宿の小母さんのお蔭で、何の不自由も無く、一度も飢じい思いをしたことがなく、毎日美味しくご飯を頂いておつた頃が懐かしい。

こんなに毎日飯が少ないと、段々痩せて行く様な気がする。加ふるに終始気を使う気苦労が自分の肉体を益々弱めつつある様だ。

数十日前に引いた風邪が未だ治らない。

上等兵はいやに威張って、何もしようとはしない。何でも一等兵にやらせて、自分等は文句を言って、見ているだけだ。こんな状態が所謂軍隊と言うものであろうか。自分はいささか疑う。自分は飯配りをするために海軍に入ったのではない。何が上等兵だ。馬鹿でも月日が経てば上等兵になるのだ。海軍には親しみと言うものがない。こんなことでは軍隊は成り立たないと思う。上下が一致協力して、その本分を尽くしてこそ強い帝国海軍が出来上がると思う。

凍てつきし我が青春の日々⑤

昭和19年12月2日(土)曇、小雨

12月に入るとさすがに寒い。急に寒くなつた気がする。軍隊に入つて初めての冬であるので、これからは益々寒くなつて行くのに先が思いやられる。何と言っても足が冷えて冷たいのには困る。応召前であつたら、今頃は火鉢に火を入れ、夜は暖かい夜具にくるまって寝ておったのだが、変われば変わるものだ。しかし我等は帝国軍人である。この位の寒さに負ける様であっては、軍人たる本分が勤まらない。寒さが何だ。頑張るのだ。

今朝は約十日ぶりに練兵場で駆け足を行ったのでさすがに苦しくて、今にも落伍しそうであつた。自分の様に体力の無い者は駆け足が一番苦手だ。今にも心臓が破裂しそうであつた。これでは軍人の用が務まるであろうか。もっともっと体力の錬磨に務むべきだ。頑健な体力の養成こそ、自分の最も望んで止まないところである。地方に居るとき、何故体力の錬磨に心掛けなかつたのであろうか。今になつて悔いても致し方がない。平常の心掛けが大切であつたのだ。今からでも遅くないと思う。今後一層体力に関して注意しよう。

明日は日曜日であるが、引率外出が行われるであろうか。軍隊に入つての一番の楽しみは何と言っても外出と、腹一杯食べることである。明日外出があつたら映画でも見ようかなあ。

今日は母の命日である。三年前の即ち昭和16年12月2日朝、母は自分の帰りをまちわびて、遂に自分に会えずに死んでしまったのだ。東京の下宿で電報を見て、驚き悲しんだ。最愛の母をあの日より永遠に失った。ああ今日はその母の命日である。母さん何故真でしまつたの。もう一度生き返へつて来てもらいたい。

昭和19年12月3日(日)曇、寒し               

総員起こしと同時に大掃除、朝食までに終了。海軍基地までの行軍は、雨が降つたりしたので、予定より遅れて午前十時頃出発。墓地まで行かず、約30分の行軍で解散、昼食を済ませて、佐世保市中に出る。うどんや果物、ミルク等を食べ、時間があつたので、映画館に入ったが、全部見ないで出た。

昨今の寒さには全く震え上がる程である。市内を歩いて敬礼をする時も、手が冷たくて指が伸びない。震えながら歩いておると、地方に居たときが恋しい。娑婆の人が暖かそうにしているのを見ると、昨年の冬は自分もあの様であつたのだがと、昔が思い出される。然しこんな弱音を吐く様では、未だ本当の軍人になりきって居ないのだと、強く自省しなければならない。

昭和19年12月4日(月)曇、寒し

昨日は外出で紅茶とかミルクを数杯飲んだためか、昨晩は数回も便所に起きて、今日はいささか眠い。午前の庶務の時間は堪らない程睡魔に襲われて閉口した。

今日は朝から第二警戒配備となり、一日中解除とならない。

昨日は東京に、B29、70機も空襲があつた様だ。自由が丘は大丈夫だろうか。心配だ。

指の傷が中々治らないのには困る。朝晩非常に痛みを感ずる。化膿しておるので、もう20日以上もバスに入れないので、身体が不潔になって居ることだろう。早く治さなければ、作業にも差し支える。

凍てつきし我が青春の日々④

 

今日は午後、防空訓練及び夜間特別訓練があつたので、夜食にお汁粉が出た。入団以来初めての汁粉であつたので、さすがに旨かった。

夜温習日記を書く。千葉、母、弟へ発信。

昭和19年11月29日(水)曇

舎内の掃除当番であったので、今日も駆け足に参加せずに助かった。

昨晩は初めて東京の岡田の小母さんの夢をみた。

昭和19年11月30日(木)曇

今朝は練兵場が水浸しのため、悪くなっておった関係であろうか、駆け足の課業はせずにすんだ。近頃(と言っても二ヶ月以上も)亀田君より便りが来ないが、一体どうしたものだろうか。恐らく招集されたのかも知れない。それにしても、知らせが有りそうなものだ。月日の経つのは早いものだ。入団以来はや六ヶ月になる。当時の事を思い起こすとまるで夢の様だ。5月30日家中或いは隣組各員の見送りを受けて、物凄く応召者で混雑した列車に詰め込まれて、博多を出発したのが今でも忘れることができない。あの日の博多駅頭に立っていた時が、所謂娑婆との別れとなったのである。

佐世保について一晩最後の日をゆっくりと送ろうと思っていたが、汽車を降りるなり、佐世保駅頭に整列させられ、そのまま下士官の引率の下、橘屋とゆう旅館へ連れて行かれ、自由を束縛されてしまつた。川添のお祖母さんがわざわざ作ってくれた「お萩餅」は胸が一杯で、三つばかり食べてあとは汽車の中に捨ててしまつたが、今考えると、非常に惜しい気がしてならない。弁当も汽車の中で食べることが出来なかつたので、旅館で食べたが、豚肉の焼いたのと、卵の焼いたのがその時はたいして美味しいと思わなかったが、今ではつくづく親の有り難さがが身にしみてわかる。

温習時間の終わりに毎晩珠算の練習があるが、元来珠算は嫌いで、一度もそれを握つたことがなかつたので苦手である。

昭和19年12月1日(金)曇、小雨

今日も曇りがちの天候である。

丁度半年前の今日が相浦海兵団に正式に入団した日である。5月31日身体検査を受け、危ふく目が悪い(近視)ので、不合格になりそうであつたが、再検査の結果、丙合格と決まつた。慌ただしく入団して、何も分からない内にいつのまにか月日は経つて、昭和19年の最後の月たる12月になつてしまつた。何だか夢の様だ。

一寸新聞を見たところによると、昨日は東京が空襲された様子、自由が丘の岡田小母さんは如何されたことやら、気に掛かる。

今まで大分暖かい日が続いたが、今日は寒く感じる。指の傷が特に痛いのは何故だろう。傷が中々治らないのには手を焼く。

煙草配給あり、金し140本、誉れ3箱。

凍てつきし我が青春の日々③

昭和19年11月8日(雨)

経理術特技兵講習員として採用され、本日佐世保海兵団へ移る予定。

朝から降り続く雨のため、佐世保行きは中止の模様であったが、夕食後急に生きことになり、出発。講習員38名の一人として佐世保海兵団へ入団した。

昭和19年11月11日(曇)

午前八時より団長出席、軍艦旗の下、経特講習事業式挙行さる。式終了後警戒警報発令され、続いて空襲警報となる。佐世保上空には敵機現れず、正午近く解除となる。

昼食の準備が上記の理由のため、少し遅れたため、上等兵より三つ殴られる。悔し涙が溢れて来たが、じっと我慢した。

午後五時頃貴社で川棚へ作業に行く。

昭和19年11月16日

この五日間は毎日夜間作業であつたので、相当疲労したが、何の故障もなく無事佐世保へ帰ることが出来た。

愈本格的な講習が明日より始まるのだ。最初のうちは陸戦、体操等の日課だから相当苦しいことであろう。

昭和19年11月23日(新嘗祭

遙拝式終了後昼食を早めに済ませて、引率外出となる。講習期間中は単独の外出は無い模様で、全て引率である。

今日がその外出の日である。習字その他の用具を買うため、文房具店等を歩き廻り、大分散財した。そのあと食べ物やをあちこち食べ歩き、変な物を腹一杯詰め込んだので、少々腹の具合が悪い。未だ時間が少しあつたので、映画館に入った。入団以来初めての映画であつたので、非常に懐かしく思ったが、時間が無くなったので、残念ながら途中で退場した。

昭和19年11月24日

今日は朝から座学、学生時代を思い出す。しかし珠算には閉口する。昨日食べ過ぎのためか腹具合が益々悪くなつてきた。

昭和19年11月25日(土)雨

ふと目醒めれば外は物凄い雨だ。時間は丁度六時頃、便所に行こうと思ったが、大雨で行けない。課業整列も舎内で行われた。夕別課は軍歌が行われた。

昭和19年11月26日(日)晴

少し早めに総員起こしとなる。食事迄大掃除。午前中は洗濯等身廻整理を行う。釣床訓練、吊り方、収め方を教員より教わる。しかしなかなか思うようにいかない。一体自分は不器用に出来ているのか。吊り床が一番苦手である。何とか人に負けないように努めて行こう。午後は演芸会が行われた。自分のような芸無しは唯見物のみ。

昭和19年11月27日(月)雨

朝より降り続いた雨は午後になつても止まず、この三四日来、気温も温かい。このところ毎朝の駈足が雨とか、その他の理由により、暫く無いので大助かりである。

昭和19年11月28日(火)曇、小雨

本日は教育局長の視察が行われた。午前八時より分隊長の修身の講義があり、引き続いて分隊士の庶務の講義があつたが、眠くて憂鬱だつた。