凍てつきし我が青春の日⑱

昭和20年1月6日(土)曇時々雪

昨夜は特別に冷えて、寝付かれなかったので、今日は睡眠不足のため眠い。

午後の課業が始まって暫くすると、空襲警報が発令され、練兵場にある防空壕に正午近くまで待避したが、壕の中は暖かくて、なかなか快適である。

今日の寒さは堪える。コタツがこいしい。昼休み時、上等兵が整列を掛けて飯の銀蠅のことで文句を言ったが、浅ましいことだ。

昭和20年1月7日(日)曇

昨夜も足が冷たくて、なかなか寝付かれなかった。冬も未だ未だ長いので、憂鬱だ。軍隊での冬は特に堪え難い。却ってあの暑かった真夏の頃が、凌ぎ易かった様な気がする。

総員起こしと同時に大掃除に掛かった。今日は平常通りであれば引率外出となる筈であるが、先般の事件(逃亡)のため、外出は講習期間中は望むべくもない。午前中は洗濯でもしようと思ったが、余りにも寒いので止めた。今日の日曜は自分の事は何もせず過ごした。なぜならば、我々一等兵は色々な雑用に追い回されるので、自分の私用なんか殆ど望めないのである。

午後はバスに入って、温まって来たが、昼間入浴すると、湯冷めして却って寒い。お陰ですっかり風邪が酷くなって、咽喉が痛くて苦しい。入浴後、演芸会が行われた。相変わらず聞き役だ。今日は胃の調子が悪い。

毎晩のことであるが、温習時間中は寒いので何もせず、ぼんやりと机に向かっているだけで、時間が勿体ない様な気がする。早く吊り床に入って寝た方が利口と思うが、講習員としては温習をやらざるを得ず、無理しても面白くない庶務の教科書を開いて、ぼんやりと見ているだけである。珠算が不得手であるので、温習壕も、十五分間、他の人よりも余計練習しなければならない。

 昭和20年1月8日(月)曇

本年第一回の大詔奉戴日である。我々はこの逼迫せる戦局に対し、揮身の努力をしなければならない。

昨夜は四回も便所に行くため起きたので辛かった。その他特記すべき事項及び所感なし。

凍てつきし我が青春の日々⑰

昭和20年1月5日(金)曇 新年宴会

明け方、楽しい夢を見ていたが、何時の間にか起床の時間となっていた。

今日は祭日、海兵団は休業であるが、講習は実施された。非常に寒いので身体がちじかんで、ペンを握る指が冷たく、講義に身が入らない。早く冬が去り、春来たらんことを望む。春待つ心で一杯だ。暖房は勿論、火の気が全く無い生活は初めてのことだから、一層冬が寒く感じられる。昨夜は風邪のため鼻が詰まり、咽頭が痛くて困った。

今日は食卓番、朝は飯の銀蠅が出来なくて上等兵の機嫌が悪かったが、夕食の時はどうやら銀蠅が出来て、上等兵も満足した様だ。今日の食卓番は無事に終わり、重荷を降ろしてほっとした。

この世に生を享けて24年(数えで)は夢の如く流れ、今は海軍の一員として経理科の方面へ進むためペンを握って経理術の講習に従っている。これは自分に最も適した役割かも知れないが、庶務とか珠算はとにかく苦手中の苦手である。

煙草が欠乏してきたのには弱る。もう配給が有ってもよい頃だが。

昨夜見た夢が現実のものであればと、果敢ない思いに耽る。いくらこんなことを考えても無駄だが。実は昨夜の夢は召集解除となり、喜んで東京に帰り、自分の部屋に落ち着いたところで、朝となり、夢が中断され、残念だった。招集解除と言うことは、今の情勢では到底望めない。又望むべきことでもない。召集令状を受けたときは、生きて再び帰ることはない。帰る時は無言の期間だけと覚悟した筈である。それが入団して僅か七ヵ月余りでもう帰りたいと思う様では、自分ながら応召当時の感激を忘れ去りつつあるには情けない。男らしくない。もっと強く生きて行かねばならない。毎日弱気な自分を励ますのであるが、凡人の浅ましさか、この日記に現れる文語は、いつも娑婆気の抜け切らないもので我ながら情けない。今後は一層心を引き締めて頑張ろう。一兵に徹した白紙の気持ちに返って、誠を以て軍務に精進するのが、自分の使命である。女々しい気持ちを起こさないことだ。張り切って行こう。

凍てつきし我が青春の日々⑯

昭和20年1月4日(木)晴後曇

昨晩は雨が降っていたが、今朝は珍しく晴天である。やはり天気良いと気分まで良い。手に霜焼けが出来て困る。こんなに左手が腫れてしまったのは、今年が初めてである。昨年迄は非常に楽をしていた関係で、今年の冬は特に辛く感じられる。

講習も段々終わりに近づいて行くが、学生時代と異なって少しもやる気が無いので、勉強する気になれない。特技章が欲しくて、講習に来たのではないから、特にそんな気持ちとなるのであろう。

我々六月一日入団の兵隊は何処に行っても最下級で、何時も気兼ねばかりして、日々を不愉快に送っているが、やはり階級が上がらないことには、どうにもならない。昨年下士官候補の試験を受けた方が良かったかもしれない。

入団して七ヵ月以上になるが、その間父と三回面会することができたが、もう一度ゆっりと会って話をしてみたい。

近頃は随分永く何処にも手紙を出さないが、こういうことではいけない。故郷と東京には少なくとも月に一度は出す様にしよう。

学生時代の友人は今頃、如何していることだろうか。大学予科を通じての親友だった福田兄は大学卒業と同時に満州へ行ったが、その後の動静が少しも分からないが、如何しておることだろう。亀田君もこの三四ヶ月便りが来ないが、どうしたのであろうか。

この頃はハンモックに入ってから、よく夢みたいな事を考えて、独りで楽しんでいる。色々なことを空想しながら、何時の間にか眠ってしまうのである。この時が一番楽しい。従って夜の時間が非常に短く思われ、朝になるのが大変早い。伍長室の時計がカンカンと六時を報じるともう、のんびりと寝ておれない。総員起こしに備えて、毛布の整頓等をしたりして、寒さに震えて、今に総員起こしの号令が掛かりはしないかと、思いながら待機する。この時が何と言っても一番苦手だ。次の苦手は朝の駆け足である。今にも倒れそうである。その次は食事当番である。三日に一回当番となる。無事終わるとホットする。海軍に入って何よりの楽しみは食べることである。それも甘いものが欲しく思われる。甘い物ならなんでもよい。腹一杯食べてみたい。到底実現出来ない様なことばかり考えて、くだらないが、何故こんな考えが起きるのだろうか。

朝はよい天気だと思っていたが、次第に曇り始めて、どんよりとした天候となってしまった。冬の暗いこの天候には、気分まで滅入ってしまう。

明日は食事当番だ。実際この時ばかりは気を使うので、神経衰弱にでもなりそうだ。

一日を無事終わって、バスに入り、温まってこの日記を気持ち良く書いたことが、一度でもあっただろうか。殆ど毎日泣き言の連続で、情けない。

今日のバスはよく沸いていたので、気持ちが良かった。しかしすぐ寝ることが出来ないので、ハンモックの入る頃には身体は冷え切っており、寒気がする。二か月前にひいた風邪が未だ治らないので困る。

昭和20年もやっと始まったばかり、今年は何処に配属となるのであろうか。もう一度針尾海兵団に帰りたい。針尾は良かった。皆同期の桜で、お互い少しも遠慮が要らず気持ちよく、愉快に過ごせた。あの頃が懐かしい。二度とあの頃の様なことは無いであろう。では故郷の皆さん、東京の皆さん、お休みなさい。

凍てつきし我が青春の日々⑮

昭和20年1月2日(火)曇時々晴

元旦も暮れてはや、二日の朝となった。今朝も雑煮であったが、固い餅が二つ入っており、寂しい限りだ。

今日からはもう平常通り、講義があった。今日も冷えて寒い。講習もあと一カ月余りとなる。何事も辛抱し、一生懸命頑張って行こう。

今日は食事当番であったが、飯の銀蠅が出来ず、上等兵の機嫌が悪い。食べ物の事で多いとか少ないとか、ブツブツ言って、全く卑しい限りだ。お里が知れる。飯を多く貰って来るものはなかなか捌ける等と言って、上等兵連中はその人間を可愛がるが、自分は何時も覗らまれてばかりである。しかしたとえどんなに思われても構わない。上等兵の機嫌をとるために、この講習に来たのでは無いのだから。毎日日記に、こんな事を書くのは自分ながら嫌になってしまう。

夕食後バスに入ったが、入浴している間だけは、自分の時間として、何事も考えずに身体が温まるまで、じっと湯に浸かっていることが出来るのが嬉しい。早くこんな不愉快な講習を終え、何処かに転勤したいものだ。

昭和20年1月3日(水)曇 元始祭

午前九時より遙拝式挙行さる。今朝まで雑煮が出た。正月も三ヶ日を過ぎれば、もう正月気分も無くなる。

今年は新年から不愉快なことが多く、心が沈みがちになる。悲しいこと、辛いことが多い。

心が暗くなってしまう。軍隊と言う集団の中だから、じつと我慢して、忍んでいるが、上等兵の機嫌を取る為に、海軍に入ったのではない。国の為に勇躍お召に応じて海軍に入ったのである。しかしたとえどんなに辛い事が起きても我慢しよう。悪い事ばかりは続かず、その内良い事も有るだろう。時期が来るまで、忍んでおこう。

楽しみにしていた今日の外出は一昨日の逃亡者のため、取り止めとなった。

初めて迎える正月に、相当期待しておったが、期待に反してつまらなく終わってしまった。今日は外出も無し。講習が終わる迄、全員外出止めであろう。

昨日は変な夢を見て、うなされて困った。しかし夢も又楽しいものだ。この時ばかりは軍隊の事は忘れてしまっている。

凍てつきし我が青春の日々⑭

昭和19年12月30日(土)曇

今年最後の陸戦教練が行われたが、寒いので練兵場に午前中立っているのがなかなか辛い。午後の食事を炊水所へ取りに行ったが、時間が無かったので、余分の飯を貰わないで帰ったところ、飯の量が少ないと卑しいことを上等兵は言う。お蔭で三つも殴られた。こんな奴相手にしない。馬鹿者何を言っているのだ。詰まらない事をくどくど言い立てて、実際人間が小さい。小人だ。海軍と言う処はこんな処とは知らなかった。もっと親しみのあるところかと思っていた。厳正な軍紀の下に上下の融合が望ましいものだ。

昭和19年12月31日(日)曇

午前洗濯、手が切れる様に冷たい。本年最後の洗濯だ。

愈々昭和19年も暮れようとする。思い出多き年だった。一生忘れられない年と成るであろう。ああ19年も静かに暮れて行く。故郷や東京を偲んで寂しく暮を送る。家では正月の御馳走の用意で今夜楽しいことだろう。餅は有るのかなあ。家のお雑煮は美味しかった。もう一度食べてみたい。

昭和20年1月1日(月)曇時々晴

昭和19年も種々な思い出を残して終わり、昭和20年の元旦となった。昨夜は久し振りで定時に寝たので、夜が長く感じられた。

海軍で迎える正月は少しも正月らしくない。朝は雑煮であったが、湯をかけて柔らかくした餅が三つ入っていたが、少しも粘りけがなく、不味かった。寂しいものだ。

午前九時より遙拝式、御真影奉拝があったが、我々29分隊は一番最後であったので、待ち時間が長くて寒かった。

午食はどんな御馳走が出るかと思っておったが、期待が外れた。

午食後引率外出で市中に出たが、正月で店は休み、他に行くところも無いので、演芸館に入ったが、つまらなかった。5時半集合であったが、糧特の上等兵が時間迄帰らず、皆非常に迷惑を受けた。いくら待っても帰らない。何をしているのだろうか。皆どんなにか心配しておることも分からないで、何処をうろついているのだろうか。折角の正月も元旦からこんな事件が起きる様では不愉快だ。一月三日の祭日は外出禁止となることだろう。楽しみにしておるのだが、一人の不心得者のために、総員が迷惑することになる。

故郷の父母弟妹は正月で今日は楽しいことだろう。

凍てつきし我が青春の日々⑬

昭和19年12月24日(日)曇

相浦まで行軍、午前九時出発、途中眼鏡岩にて休憩、十二時相浦着、午食後解散、集合場所は集会所の前午前四時半までとのことのため、相浦より殆ど走るようにして佐世保に向かったが、足が痛くて、皆に付いて一緒に行くのが苦しかった。

二三日以来腹具合が悪い。夜温習後握り飯を食べたのが一層いけなかった。

昭和19年12月25日(月)大正天皇祭

朝食は食べなかった。腹を壊すとこんなにも苦しいものであろうか。

今日は遙拝式が行われる筈であったが、第二警戒配備となったために取りやめとなる。明日は金銭の臨時試験があるが、未だ手を付けていないので気になる。夜温習終了後遅くまで勉強しておった人も大分居ったが、寒いので寝てしまった。

昭和19年12月26日(火)曇

金銭の臨時考査が行われた。

昭和19年12月27日(水)曇

今日は需品の試験があった。明日は庶務の試験も行われる。庶務はどうも苦手だ。夜温習中教科書を読んだが、寒くて少しも頭に入らない。11時頃未だ大分多くの者は勉強していたが、自分は寝てしまった。

昭和19年12月28日(木)曇

午前庶務の試験があったが、昨日少しも調べていなかったので、やはり出来なかった。

しかし臨時試験も出来ないながら終わったので、安心して正月を迎えることが出来る。昨年の正月は未だ娑婆にいたので良かったが、今度は初めて軍隊で迎える元旦であるので、どんな風であろうか。

昭和19年12月29日(金)曇

定時六時半起床、吊り床を収めて外へ出ると未だ暗い。舎内の掃除当番であったので、駆け足はしなかった。

毎日どんよりと曇った天候が続いて、非常に寒い。佐世保も東京に劣らず寒い所だ。明日は陸戦があるが、寒いと苦手だ。せめて暖かい日になって呉れればよいが。

三時頃先日の事件のことで軍法会議に出る。

今日のバスは熱くてよく温まり気持ちが良かった。このまますぐ床に入って寝ることが出来るのだったら満点だが、娑婆と違ってそんなことは考えることも出来ない。

明後日は元旦だ。故郷では年越しの準備で忙しいことだろう。

東京に又27日敵機約50機の来襲が有ったとか、自由が丘近辺が一番気に掛かる。

凍てつきし我が青春の日々⑫

昭和19年12月22日(金)曇時々晴

昨夜は暖かいと思っておったら、夜中に雨が降って来た。御陰で今朝は駆け足がなうて済んだのには助かった。

次第に実務等の講習が多くなって来て、忙しくなる。来週は臨時試験があるが、庶務には一寸閉口する。学生時代は冬でも暖かくして勉強出来たので良かったが、今は寒い所で振るえながら勉強するので、よく頭に入らない。

今日は昨日迄と較べると割合に暖かくて良かった。

海軍に入った当初は食器一杯の飯を食べることが出来なかったが、今は却って量が少なく思われ、夜中腹が減って困る。東京にいた頃は間食していたので、食事も少しで満足しておったが、現在は飯の外は何も食べる物がないので、余計に腹がへるのだろう。

近頃はよくこんな事を考える。もし娑婆にでたら、最も理想的に生活しようと思う。軍隊で体験した事を社会で応用して見よう等と軽い空想に耽ることがある。娑婆(海軍では軍隊の外の世界を娑婆と言う)で苦しい事、辛い事は現在置かれている境遇を考えると、大した事ではない。厳しい軍紀の下、全ての個人の自由は完全に束縛されているのであるから。自分が海軍に入ったのは、天が与えた試練あると思いたい。

昭和19年12月23日(土)曇

暖まっている毛布の中より、総員起こしの少し前に出て、毛布の整頓を行うのは寒くて辛い。今朝も少し暖かいので、駆け足の時には汗が出た程であった。

朝食後クラス長の洗面を用意しなかったと言う理由で兵長と上等兵に殴られたが、我々は下士官の私兵ではない。我々は国のお召しに応じて、国に命を捧げる為に海軍に入って来たのである。下士官の私用を務めるために来たのではないのだ。その点、我々の最もよき理解者東条大尉(針尾海兵団当時の分隊長)が懐かしい。

今日は庶務の講義が無くてよかった。聞いている内に眠くなるのには弱る。

会社(萱場製作所)は今頃は忙しいだろう。あの頃一緒に働いていた同僚はどうしているかなあ。会社に勤めている時は、嫌であったが、今では寧ろ懐かしさと親しみを感じる。昨年の今頃はよく夜遅くまで居残って働いていたが、それも今考えるとなかなか楽しい物であった。三木君も弥永君、鎌田君も今は軍隊に入っておるが、如何しておることだろうか。

昭和19年も愈々暮れようとしておる。六ヶ月以前の生活と現在の軍隊生活とを比較して見るとき、その変化の激しさ甚だしいこと全く想像もしてみなかったのだ。会社に居る頃はよく働いたと思う。自分の仕事が直接前線で活躍する航空機の製作に役だっておると考えるとき、張り合いがあった。しかし今はどんなであろうか。大して身体も強くないし、第一戦に於いて対敵行動をとることが出来るだろうか。軍隊で奉公するのと、娑婆で生産に従事するのとどちらが国の為になるのであろうかと一寸軽い疑いを感じることがある。しかし国が必要としたから、自分の仕事も捨てて、応召したのであると言うことを考え、兵隊として国のため尽くさなければならない。たとえ身体は丈夫でなくとも、精神力でやりぬいて行く。頑張るのだ。