凍てつきし我が青春の日々㉔

昭和20年3月31日

今までの元の九兵舎に居住していたが、次期経理術講習が4月2日より始まるので本日追い出されることになった。

昭和20年4月3日

午前福石の軍需部倉庫へ寝台運搬の作業に行く。午後帰ると、東京警備隊へ転属命令が来ていた。全く感無量だ。

昭和20年4月4日

午食後、思いで多き佐世保海兵団を退団、午後六時過ぎの列車にて東京に向け出発す。博多に夜十一時頃着き、ここで東京行きの午前四時四十五分の列車に乗り換えることになったため、四時間余り時間があったので、元住んでいた住吉の家(川添一家が今住んでいる)へ行った。和子未だ古賀ではなく、住吉にいると聞いていたので、和子にも逢えると思ったが、生憎古賀の家に行っており、逢えず残念であった。川添のお祖母さんがわざわざ早い朝食の支度をして、二食分の白米の弁当まで作って頂いた。

昭和20年4月6日

二度と東京の土を踏むことは無いと思っていた東京に午後三時頃着く。直ちに日比谷にある海軍東京警備隊へ行き、ここから永田町国民学校にある派遣隊

配属された。我々は海軍省勤務となる予定である。

昭和20年4月18日

目黒区大岡山の東京工業大学内にある海軍省第三分室経理局家族渡へ配置が決まり、大岡山へ移った。

昭和20年4月28日

今日は東京に帰って来てから初めての外出である。自由が丘の元の下宿を訪ねたところ、4月15日の空襲により焼失していた。中根町の方に行ったところ、岡田の小母さんの元気な姿を見ることが出来て安心した。

昭和20年5月1日

海軍上等主計兵に進級する。

昭和20年5月23日

東京へ出て今夜で三度目の大きな空襲だった。遂に宿舎にも焼夷弾が落下し、焼失した。私物もすべて焼けてしまい、残ったものは着ているものだけとなった。この日記を書いている手帳はいつも肌身離さず身につけていたので焼けずに済んだ。

昭和20年8月26日

8月15日戦争終結、同日付にて海軍主計兵長に進級し、退職金600円を受領して除隊する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上で祖父の日記はおしまいです。

このあと28人の方からの寄せ書きと針尾海兵団々歌の歌詞が綴られていました。

 

最後まで読んでくださった皆様ありがとうございました。

 

現在来年の文学フリマでこの日記を一冊の本にまとめたものを出そうと考え中です。