凍てつきし我が青春の日々④

 

今日は午後、防空訓練及び夜間特別訓練があつたので、夜食にお汁粉が出た。入団以来初めての汁粉であつたので、さすがに旨かった。

夜温習日記を書く。千葉、母、弟へ発信。

昭和19年11月29日(水)曇

舎内の掃除当番であったので、今日も駆け足に参加せずに助かった。

昨晩は初めて東京の岡田の小母さんの夢をみた。

昭和19年11月30日(木)曇

今朝は練兵場が水浸しのため、悪くなっておった関係であろうか、駆け足の課業はせずにすんだ。近頃(と言っても二ヶ月以上も)亀田君より便りが来ないが、一体どうしたものだろうか。恐らく招集されたのかも知れない。それにしても、知らせが有りそうなものだ。月日の経つのは早いものだ。入団以来はや六ヶ月になる。当時の事を思い起こすとまるで夢の様だ。5月30日家中或いは隣組各員の見送りを受けて、物凄く応召者で混雑した列車に詰め込まれて、博多を出発したのが今でも忘れることができない。あの日の博多駅頭に立っていた時が、所謂娑婆との別れとなったのである。

佐世保について一晩最後の日をゆっくりと送ろうと思っていたが、汽車を降りるなり、佐世保駅頭に整列させられ、そのまま下士官の引率の下、橘屋とゆう旅館へ連れて行かれ、自由を束縛されてしまつた。川添のお祖母さんがわざわざ作ってくれた「お萩餅」は胸が一杯で、三つばかり食べてあとは汽車の中に捨ててしまつたが、今考えると、非常に惜しい気がしてならない。弁当も汽車の中で食べることが出来なかつたので、旅館で食べたが、豚肉の焼いたのと、卵の焼いたのがその時はたいして美味しいと思わなかったが、今ではつくづく親の有り難さがが身にしみてわかる。

温習時間の終わりに毎晩珠算の練習があるが、元来珠算は嫌いで、一度もそれを握つたことがなかつたので苦手である。

昭和19年12月1日(金)曇、小雨

今日も曇りがちの天候である。

丁度半年前の今日が相浦海兵団に正式に入団した日である。5月31日身体検査を受け、危ふく目が悪い(近視)ので、不合格になりそうであつたが、再検査の結果、丙合格と決まつた。慌ただしく入団して、何も分からない内にいつのまにか月日は経つて、昭和19年の最後の月たる12月になつてしまつた。何だか夢の様だ。

一寸新聞を見たところによると、昨日は東京が空襲された様子、自由が丘の岡田小母さんは如何されたことやら、気に掛かる。

今まで大分暖かい日が続いたが、今日は寒く感じる。指の傷が特に痛いのは何故だろう。傷が中々治らないのには手を焼く。

煙草配給あり、金し140本、誉れ3箱。