凍てつきし我が青春の日々①
先日祖父が亡くなった。亡くなったら絶対にほしいものがあった。
それは祖父が戦争の時につけていた手記である。
何年か前90代のあるじいさんがかいた絵日記が出版されて話題になった。それを私の祖父にプレゼントすると自分のは絵はないが戦争のとき日記をつけていたことを教えてくれた。
当時は手書きだったが平成に入ってワープロで文字おこししたものを見せてくれた。
読みながら涙してしまったことを今でも覚えている。
一般人が書いたものでもSNSがあれば不特定多数の人が見れる時代だ。
祖父がワープロで文字おこししたものを今度はわたしがブログに残す。
これを通して戦争のことを知ってもらうのはもちろんだが、わたしは激動の中これだけまめに日記をつけていた祖父自身のことを人に知ってもらいたい。
だれにも迷惑をかけず、我慢強く、穏やかで優しいおじいちゃんだった。
少しずつ時間をかけて残していこうと思う。
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凍てつきし我が青春の日々(帝国海軍体験記)
昭和18年9月26日
日本大学商経学部経済学科卒業
昭和18年10月19日
(株)萱場製作所入社。資材部資材課勤務を命じられる。昭和19年5月1日職制改革により本社資材部第一資材課勤務となる。
昭和19年5月20日
会社の渡辺氏宅にて萱鵬会々員集まり、会食、鶏肉のすき焼き、てんぷら等を食べた。途中警戒警報が発令されたが、薄暗い中で遅くまで、久しぶりの酒を飲む。雨の中やっと終電車に間に合った。自由が丘に着いたら下宿の小母さんが迎えに来ているので、おかしいと思ったら、佐世保海兵団への招集電報が来ていた。
昭和19年5月25日
下宿の小母さん(岡田登利)、学友の亀田君、会社の弥永君、越村さん、苅谷さんの見送りを受けて、東京駅午前11時初の急行で出発す。
昭和19年5月26日
午前10時45分博多着、父の迎え有り。入団まであと僅かしかない。
昭和19年5月27日
明日壮行会のため、父と古賀(福岡県粕屋郡)へ行き、大きな鯛やいちご等を買う。
昭和19年5月28日
夜父の会社(西部電機工業)の人を招き、ささやかな壮行会を開く。
昭和19年5月29日
親戚関係を招き壮行会をする。親しい友人も居らず、寂しさがつのる。伯父の関福三郎(亡母の兄)より「命を粗末にするな。生きて帰ってこい」と言われたことが忘れられない
昭和19年5月30日
愈々今日は出発の日である。住吉神社へ父その他家族と行き、武運長久の祈願をする。
午前10時町内の人達の見送りを受けて、博多駅へ向かう。駅には家族や親せきが来る。ああこれが最期か。左様なら。またいつの日にか会えるだろうか。
午前11時36分博多発佐世保行列車に乗り込む。応召兵で列車は一杯だ。皆の顔をもう一度見たかったが、身動きができず、住吉神社裏で見送っている筈の父達の顔も遂に見ることが出来なかった。途中で席が空いたので、座ることができた。川添のお祖母さん(継母の母)が作ってくれた「おはぎ」を三っばかり食べて、あとは食べきれなくて、捨ててしまった。お祖母さんには申し訳ない。夕方佐世保に着く。駅を出ると海軍の係官に広場に整列させられ、そのまま旅館(橘屋)へ連れて行かれ、自由が完全に束縛されてしまった。明日は愈々入団である。不安な気持ちで一杯である。薄い布団にくるまって、いろんなことを考えてる内に、眠ってしまった。
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続きはまた明日。