牛糞号
こだまさんの新作「縁もゆかりもあったのだ」を読んだ。
ここだけの話ずっと「縁もゆかりもあったものだ」と思い込んでいた。
「も」が入るか入らないかでこんなに意味合いがかわってくるなんて。昔からこんな勘違いが日常茶飯事だった。
どのお話も面白かったけどやっぱり「ブルーシートの息吹」が一番好きだった。
引っ越しをするときにトラックを借りたお話。そのトラックが普段牛のうんこを乗せているので「牛糞号」と名付けていたことがかなり好きだった。おそらく「ぎゅうふんごう」と読むのだろうが、わたしはずっと「うしくそごう」と読んではクックックと笑っていた。
女の園の星に出てくるこの一コマはわたしの真理だ。
これでもかこれでもかと「牛糞号」をいじりたおす軽快さと、ブルーシートの「ボハッ」でこちらが何度も吹き出してしまう。
それなのにタイヤがスリップしてしまった時の回想シーンでは泣かされてしまう。
作中の中でたくさんの角度で一番心が動かされた一話だった。
こんなに揺さぶられて最後はどうなるんだろうと思っていたら直前までうんこ祭だったとは思えない綺麗な終わり方だった。ちゃんとつながっている。
毎回書いてしまうけど本当に文章の締めくくりがいつも綺麗で、今回もいい話が読めて感謝していますと丁寧におじぎをしたい気持ちになる。
「猫を乗せて」では言うまでもなく号泣で、ティッシュ片手に何度も鼻を啜りながら読んだ。
死んでしまって1週間で書き上げた文章が本になってこだまさんの力になっていくことを切に願います。作中にまたたびが入った竹細工のおもちゃが登場したことも嬉しかった。
「ロフトと二ジョージョー」は新しい「 」の使い方を見た気がした。
「 」の使い方一つで同じ作家でもここまで違う色が見えるという発見ができて嬉しい。
こだまさんの新作を読むといつもTwitterよりながい文を書いてしまうな。
そういう力があるとても好きな作家さんなのでこれからもわたしは読み続ける。
人生はDynamite
先月髪を切った。
鎖骨近くまで伸ばしていたが、手入れが面倒になりいっきにショートしてもらおうと
なりたい髪型の画像を探した。
保存した画像は段の入ったショートだった。
正直自分のイメージと違う部分があったが、口でうまく説明できなしかぎりなく近い画像を選んだ。
夫婦で経営してる小さな美容院を予約した。
主にご主人がカットをしていて、奥さんはアシスタントのような仕事をしているところだった。
ご主人に画像を見せると2秒画面をみただけで「はい、わかりました」とすぐカットにはいった。
できあがった髪型は段は全く入っておらず、奥さんと全く同じボブショートだった。
全然わかってないやないかい。
先週ふとBTSのDynamiteのMVは見たことなかったなと思いたちYoutubeを見て度肝を抜かれた。
もともといい曲なのは知っていたけど、みんなダンスうますぎるし歌もうますぎる。
踊っている中様々な表情を魅せる7人に釘付けだった。
そしてやたら綺麗な顔の人が自分のしたかった髪型をしていた。
そうそうこれこれ!!この髪型だよ!!
リングフィットがんばろ。
これがきっかけで今更ながらDynamiteの沼にはまることになる。
K-POPアイドルは今まで全然聴いてこなかったのでセオリーとか全然わからないが、
何度も繰り返し聴くことでJ-POPアイドルとの違いが見えてきた。
まずサビを全員で歌わない。初めから終わりまでずっとメンバーが交代でソロで歌い続けている。
J-POPのサビを全員で歌うってもしかしてダサいのかもなとそこで気づいた。
そして1曲に対して公式が様々な種類のMVをアップしている。
たった1曲だけでもはまってしまえば長く楽しめる仕様は素晴らしい。
だって推しを追うためのフィールドなんてでかければでかいほどいいから。
狂ったように動画を見たり曲を聴いているのにメンバーの名前は7人中4人しか覚えていない。
顔の区別は全員つくようになってきたし、Dynamiteにかぎりどこのパートをどんな顔の人が歌っているかもわかる。
わたしがはまっているのはBTSの沼でなくDynamiteの沼なんだ。
好きな歌詞のとこはっとこ。
決して明るくはないこのご時世、なんとなく憂鬱な毎日を過ごしているので刺さって刺さってしゃーないよ。
灯してちょうだいよ。再生数は何回だってのばすのよ。
余談だがDynamiteの中でここの箇所がどうしても「かみおま」と言っているように聴こえる。
かみおまといえばわたしの中でモンハン。
大好きな曲を聴いているのに毎回モンハンが浮かぶ。
かみおまをひくための地獄の周回。
3月のモンハンライズの発売楽しみですね。
今日あったできごととその周辺(ねこでできます)
一昨年まで夫の実家で暮らしていた。その時同居していたねこの具合が悪いから病院につれていこうということになり、金曜日の仕事がおわったあとその足で夫の実家に向かった。
具合が悪いというのは肉球と爪の間が膿んでいるということだった。
会うのは二ヶ月ぶりくらい。
ひとなでした瞬間に背骨のぼこぼこを感じめちゃくちゃ痩せていると思った。
その日は到着が深夜だったのですぐに寝た。
ベッドにくるちゃんが(ねこの名前)がすぐに滑り込んできて、腕の中にしばらくいてくれた。
痩せてるし、息は臭いし、前足からは膿みのにおいがするし最悪で愛おしかった。
もしかして死期が近いのかもとすら思い、目に涙が溜まった。
わたしが知っている身近な死んでしまった人たちは、じいさんとばあさんたちだ。
彼らとおなじにおいがした気がした。このまま朝まで腕の中にいてくれて、そのまま冷たくなっていたらどうしようと
悲しい妄想をしながらうとうとしていたけど、そんなことはやはりなくて
夜も更けて覚醒したくるちゃんはベッドから飛び出していった。
朝方またベッドに滑り込んできて、一緒に住んでいたときはこんな幸せもあったよなと思い出した。
腕にくるちゃんを抱いてうとうとすると「ぷぴぴぴ。ぷぴぴぴ。」といびきが聞こえてきて、これは幸(さち)でしかないと感じる。
わかりやすい幸せは車で二時間のところにあった。
次の日の午前中動物病院に連れて行く。
病院では体重を必ずはかる。2月から600gも落ちていたらしい。やっぱりな、という感想だった。
痩せたことを心配した獣医は血液検査をしましょうと言い、採血をした。
病院も注射も大嫌いなくるちゃんは必死でシャーシャー言って抵抗していた。
ここの獣医さんも看護師さんもとても優しいので、毎回かならず「ごめんの〜〜」と
患者の動物たちに寄り添ってくれるのでとても好きだ。
採血の結果が出るまでとても時間がかかった。
待ってる間にたくさんの患者さん動物たちがきた。
ハーネスだけつないでじっとしていたくるちゃんを見て、見ず知らずの患者さん動物のご主人たちは「おとなしいですね」と口にしていった。
採血の結果、膿んでいる部分の痛みを感じストレス値が高そうだということがわかり、
2週間は効くとされる抗生物質の注射を二本打つことになった。
現在くるちゃんと一緒に住んでいる義母が薬を毎日塗ることは難しいと判断した結果だった。
採血の時より抵抗したくるちゃんをみて胸が痛かった。
シャーシャーが怖いのでわたしはとても手がだせなかった。情けない。
薬が効くといいな。
車内から外をみるのが大好きなくるちゃんは
注射直後ぐったりしていたのにも関わらず、ずっと外を見ていた。
余談だけど毎週金曜はネトゲをしたり、人狼をしたりして遊んでいるので今週はねこを病院に連れて行くので参加できないと主催の子につたえると
「くるちゃんよくなるといいね」と返事が返ってきた。
わたしは「ねこ」と表記したのに友人は「くるちゃん」と名前を覚えていてくれたのだ。
病院が終わったくらいのタイミングで「くるちゃん大丈夫だった?」とその子から連絡がきた。
友人の気遣いも嬉しかったしこうも思った。
くるちゃんよ。わたしの愛がどうやら友人にも伝わってるらしいぞ。少し天狗になった。
2週間後また膿みのの状況を見に行くと思う。
そのときはくささが和らいでいるといいな。死期なんて感じたくないのよ。
ずっとずっと元気でいてほしいな。
なんで動物のことがこんなに好きなのかなって考える。
母の話によれば、幼少期から動物が好きで、羊に蹴られても泣きながらまた懲りずに近づいて行くことがあったらしい。
5年前くらいの仕事が死ぬほど大変だったときも、近所猫が膝の上に乗ってくれるかわいいこだったので、寒い冬空の下30分以上一緒にいたこともあった。
人間ってみんな複雑な感情があるからやっぱ自分なりに気をつかってしまいすぎてるところがあるのかもしれない。
自分を入れて10人が集まるコミュニティに参加したら、9人みんながどうやったらみんな楽しいかなってことを考えてしまうし(考えているだけで実行はできていない)
そのコミュニティごとに自分の仮面を変えているから、あれれ?本当の自分どこだっけ?ってなってあっぷあっぷしてるところがあるのかもしれないなって思う。
でも仮面を変える行為自体がきっと本当の自分だとも思うし。それが正しいと思ってずっとしてきたので、今更そのマインドは変えられない。変えれるものなら変えたいけど。
ずっと一人ではいたくない。おもろい人に出会えるならそれに越したことはないと思って、フットワークは軽いつもりでいる。
参加すれば楽しいと思う気持ちは絶対にあるので、楽しいと疲れたのせめぎ合いでバランスが崩れることもきっとある。
それに疲れた時に、動物に対してはコミュニティっていう概念がないからフラットでいれて癒されてるかもしれないな。
気分屋なのでそういう時に自分は人間より動物との方が仲良いのかもと思ってしまう。
とんでもない御都合主義だよ。人間がいないと生きていけないくせにな。
動物とはコミュニティって概念はないけどコミュニケーションは取っているつもり。
だからくるちゃんも仲良くしてくれるんじゃないかなと思いたい。
ぬいぐるみとしゃべる人はやさしいを読んで
今の仕事が今月いっぱいで、それでも6日間の夏休みは使ってよいということだったので惜しみなく使わせてもらった。職場でわたしに回って来る作業が本当にないのが苦痛だったので休めるのは本当にありがたい。
仕事をしているフリをしていないと周りの目が気になってしんどいから、自分には全く関係のないマニュアルや社内の規則を読んだフリをパソコンに向かっている人を演出していた。辛かった。30を超えても上手なさぼり方がわからない。
夏休みがとれて自由な時間があっても、実家にかえることも出掛ける事も出来ない。
出掛けたつもりで本を買おう。いつもけちけち文庫本を買うけど今日は単行本買っちゃおと意気込んで本屋で4冊購入した。
そのうちの一冊が大前粟生の「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」だ。
やさしすぎて仲の良い相手につらいことや愚痴を言えない人達がそこにいた。
自分がつらい話をすることで相手までつらい気持にさせてしまったらどうしようという心配からだった。だからぬいぐるみにしゃべる。
繊細だ。
わたしもつらい話をすることで相手の気持ちを引っ張りたくない。でもぐるぐる考えていることはたくさんある。思考ダムが決壊寸前だ。決壊前に自分の気持ちを整理するためには誰かに話を聞いてもらいたい。決壊寸前だけど時間をおいておどけて話せるようになれば相手の負担は減るよな!という思考でつらいつらいの本番のときに誰かに今つらいって言えた事があったか思い出せない。不健康だし遠回りだしまどろっこしい。ばかたれ。
能天気に生きてきたつもりだったけど自分はもしかして生きづらい人間なのか?と思うようになった矢先にこの本を手に取った。
主人公七森がぬいぐるみのおばけちゃんに宣言した内容が刺さりすぎて胸が痛かった。
最終的には一番聞いて欲しい相手につらい気持ちを打ち明けることができるのだけど、その時も言葉を選んで話に登場する人を敵にまわさないようにする配慮がやさしくて、アンタそこまでしなくていいよと苦しい気持ちにさせられた。
最初から最後まで苦しい話だった。でもこのタイミングで読めてすごくよかった。
昨日ともだちにわたしも愚痴を言ったとこだったからだ。
短編集なのでいくつかほかの話もあった。
漫才師が出て来る話でネタの中に、梅干しとチャーハンが好きやから、梅干しでチャーハンを作りたい。最終的には梅干しで坂本龍一を作ったという流れに声を出して笑ってしまった。
説明のつかない笑い。本当に好きだな。
バナナとビニニと謝罪
くどうれいんさんが書いた「うたうおばけ」という作品にお気に入りのエピソードがある。
バナナの「バ」をバ行どの言葉を入れてもネイティブな「バナナ」に聞こえると気づいてしまったギャルたちが小一時間笑うというものだ。
これを読んでわたしも笑いながら深く頷いた。実際に口にだすと本当にネイティブバナナになった。
こういったしょうもないことが昔からずっと好きだ。
毎週酒を飲むインターネットの男女の集まりがあるので、早速このエピソードを話したら誰一人からも共感を得られなかった。飲んでいたこともあって説明が下手だったかもしれないが、温度差がぐっとひらいた音が聞こえた気がした。「そんなん言い方やん」とひと蹴りされて「やってんな!謝れ!w」と言われたのでたっぷり間をとって「申し訳ございませんでしたッ…」とウィスパーボイスで言ったらなんか爆笑された。笑ってほしかったのはそこじゃない「ビニ〜ニ。ほんとだ!ネイティブバナナだ!あっはっは」って一緒に笑いたかったのがわたしのシナリオだった。なんであのとき「じゃあ言ってみ!!」って言えなかったのか。温度差に恐れおののいてしまったんだ。悔しい。
でもこんなん感性とか感覚とかの話になってくるので共感を得られることの方が特殊なのだ。
わたしは少数派だろう。わかっていたはずだった。
それでも共感が欲しい気持ちが捨てきれず、前回の記事でも書いた2文字の言葉面白い説の友人にバナナはビニニの話をするとクスクスしてくれた。ちゃんと声にも出してくれたらしい。好きだ。
バナナはビニニ謝罪案件から数日後、インターネットの男女集まりのうちの一人にこの話を改めてした。すると「感性が違うのもいいもんじゃないか」と言われてはっとする。他人をみてなるほどこんな考え方もあるんだなって思うことも、しょうもないことと同じくらい好きだ。
この人はわたしが視野が狭くなってる時に、合理的でわかりやすい一言をくれてはっとさせられることが何回かある。本人はまじでなんも意図せず言ってることが響いちゃうからいつも面白い。響いたことは悔しいので内緒にしている。
今後もしバナナはビニニで同じテンションで面白がれる人と出会えたら手を取り合って大喜びすることは間違いない。
出会えなかったとしても、違う感性の人と、わたしの能力の5角形グラフと、あなたの能力の5角形グラフを重ねたらお互いの無い部分補い合ってる!コーンフレークの五角形のグラフと同じだ!ギャハハ!って笑いあえたらそれも最高って思う。
なに言ってるかわかりますか?わたしもわかりません。寝ます。
持続可能な魂の利用を読んで
長い付き合いの友人がいる。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとはっきりしていて、いつも真っ直ぐ正面から伝えてくれる彼女のことが私は好きだ。面白いと思うことも大事にしていることも近いものがあるなといつも思っている。
あるとき彼女は「2文字の言葉っておもしろいよね」と言った。ガヤガヤした中華屋でのできごとだった。全然意味がわからなかった。例えば?と聞くと「どろ」とか「ぼう」と彼女は答えた。
私は爆笑した。たしかにおもろ!!!!以外の感情が出てこない。響きがとても面白い。
今これ読んでる人全員「え??なにが?」と思ったことだろう。
しかし私にとってはお笑い芸人のたとえばアンタッチャブルの柴田が動物の話を意地悪そうにするだけで無条件で笑ってしまうあの感覚。全然例えになっていないことは承知している。もうこれ感性の話になってくるのでわからなかったらしゃーなしと半分暴力的な感じで今書いてしまっている。
2文字面白あるあるを話してくれた彼女は共感してくれる人がんこちゃんともう一人しかいないと言っていた。希少種の感性らしい。
松田青子さんの「持続可能な魂の利用」を勧められて一気読みした。
冒頭で「おじさん」という言葉が50回も出てくる。「おじさん」という語感も「どろ」や「ぼう」と同様に無条件で面白いと思ってしまう言葉だった。
勧めてくれた人は私が「おじさん」って語感好きなこと知ってたのかな??と思うくらい繰り返し出てくる「おじさん」というワード。
でも読み進めていくと私自身が「おじさん」からされた仕打ちをだんだん思い出してきて、「おじさん」というワードを冒頭で面白がってた自分を殺したくなった。2文字の言葉で笑っていた自分を否定はしない。ただ「おじさん」から受けた仕打ちに蓋をして「おじさん」の語感だけを楽しんで、本当の気持ちから目を逸らしていた自分に心底腹が立った。
例えば制服を着ていた学生時代、通学中にバスの中で太ももの写真を撮られたり、歩いている時に後ろから走ってきた「おじさん」にスカートをめくられたりしたこともあった。
それを面白おかしく傷ついていませんよと言わんばかりにネタにして友達に話したり、ブログに書いていたあのころの自分を往復ビンタしたあと抱きしめてやりたい。自分に嘘をつくんじゃねえよと。
作中で具体的にこそ名前は出さないが有名なアイドルやバンドなどがでてくるのが妙にリアルで、後半で少しSFチックな展開になっても無理やりな感じがしなかった。それだけ中盤までのリアリティと今の世の中を的確に切り取っていたように思う。
去年長田杏奈さんの「美容は自尊心の筋トレ」を読んで感銘を受けたあとに勧めてもらってよかったと思える作品だった。タイミングがすごくよかった。
人から本を勧めてもらうことはとても嬉しい。誰かのプライベートな時間に一瞬でも自分のことが頭によぎっていたんだと思うと心底嬉しい。
今回も夫ゴリラのフットワークの軽さによってすぐ手に取ることができた。アリガト!アリガト!
冷たいココア缶
暑くなってきた。毎日だいたい暑い。雪国の我が住まいも例外じゃない。
今の職場で社員が拾ってきたどんぐりを数える業務が月一である。冬の間は雪で山に入れなくなるので、どんぐりを数えることはない。今年度もそろそろどんぐりかなと思い始めて2ヶ月はたつ。新型コロナウィルスの影響のためかまだどんぐりを数えていない。
どんぐりのツイばっかりしてるせいで、どんぐりを数える業務しかしてないと思われがちだが、誰もやりたがらない雑用を主にしている。
先日も社員が外に出している大量の看板をしまいにいくと言うので手伝いますとついていった。その社員は若い好青年で上司からぼんぼん任される仕事も卒なくこなしてる人だった。笑顔を絶やさずユーモアもある。奥さんが厳しく、お小遣いもほとんどもらえていないという話をよく聞いていた。
二人で大汗をかきながら看板をしまい終え、室内へ戻る。室内もまた暑いままだった。
しばらくして「おつかれさまでした」とその社員から声をかけられ、自販機で買った冷たいココア缶を差し出された。
とても驚いた。業務時間内に暇で死にそうだったから手伝っただけなのに、特別報酬をもらっていいんだろうかと戸惑いながら受け取った。ちょうど自分で冷たい飲み物を買おうと思っていたところだったので嬉しかった。お礼よりすみませんを強調して伝えてしまった気がする。こういう時はお礼に重心を置くべきだと後悔した。
普段甘いものを飲まないのでココアは自分では絶対に選択しないものだった。今ココアはちゃうな〜と思ったので持って帰ろうかと一瞬頭をよぎったが、冷たいもんを冷たいうちに飲まなくてどうすると思いとどまり頂くことにした。ふとその社員をみると自分に飲み物を買った様子はなかった。そういえばお小遣いが厳しいと言っていたことを思い出す。私に買うためになけなしのお小遣いを使ってくれたのかと思うと心にくるものがあった。もらったココア缶のプルトップをひき半分くらいを自分のコップに注ぐ。のこりの半分を缶ごと社員に渡した。「半分自分のコップにあけたのでこれよかったはんぶんこしましょう」これを言うのに勇気が必要だったが、自分だけ冷たい飲み物をゴクゴクすることはどうしてもできなかった。社員は「いやいやいや、全部飲んでください」と言うこともなく一発で「ありがとうございます」と笑顔で受け取ってくれた。100点の回答だよ。勇気だして言ってよかった〜。
そう思いながらココアを一口飲むと甘さ控えめでスッキリしててすごく美味しかった。自分では絶対に選択しないものを他人の介入によって新発見をする。こんなこともあるもんだなと思う。こんなこともあるもんだなの積み重ねが、死ぬ前にいい人生だったなと思えると信じている。